pabulumの日記

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pabulumの日記

早稲田の文芸サークルpabulumのブログです。

新歓 読書会のお知らせ

画像は仮です

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3月も中旬にきて科目登録の時期になりました。私たちpabulumも合宿を終えて身が引き締まり、文フリにむけて最終稿を書き上げている最中です。

他の文芸サークルのように、pabulumも新入生歓迎会として、4月、5月、6月に数回、公開読書会を開きます。もちろん参加者は1年生に限りません。1度遊びに来る程度の気持ちでお越しください。場所は早稲田大学戸山キャンパスあるいはその周辺の喫茶店等を予定しています。会費などは不要です。

最初は4月12日。

金井美恵子「兎」を予定していますが、文量を考えて同じ作者の他の短編に変更するかもしれません。本文はこちらで用意します。

日程が合わない方は4月から5月7日の文学フリマ当日までにコメントやTwitterにDMを送ってくだされば簡易読書会を開きますので是非気軽に送ってください。

@pabulum15 がサークルのtwitterアカウントです。幹事長が主に運営しています。

みなさんにお会いするのを心よりお待ちしております。

pabulum一同

眼鏡破損、あるいは三人称多元

ブログの記事数が少ないので動かします。f:id:pablum:20170302143131j:image

サークル員の家に泊まっていたら眼鏡が割れました。

 

サークルの雑誌「三人称多元伝聞偽書」の初稿を皆出し終わりました。合評会を通してから、春の文フリで頒布できそうです。

ここで三人称多元とはどのようなものをいうのか説明します。ジェラール・ジュネットは小説における視点を体系化し、整理しました。ジュネットは視点には多元と一元があるといいます。私たちは敢えて多元を選択することで、多く書かれる一元小説では書けないことを書こうと試みています。多元視点は現実には存在しませんが、人間が他者の視線を想定することで、世界を認識していること(ドゥルーズ)を考えると、むしろ現実離れすることでリアリズムを獲得できるのではないかと思います。

三人称多元の小説で素晴らしいものをあげておきます。

 

V・ウルフ『灯台へ

 あらゆるものは静かに消え去ってしまうにしても、流れるエクリチュールは世界をつくりあげる。

 

阿部和重シンセミア

テクスチュアルな粉塵爆発!

 

保坂和志『残響』

この世界で誰かのことを考えること/考えられること。

 

伝聞、偽書はまた今度。

 

鯵(眼鏡壊された人)&タケバヤシ(眼鏡壊した人)

【活動報告】樋口一葉「大つごもり」読書会

2月7日に、樋口一葉「大つごもり」の読書会をおこないました。

 

「大つごもり」は1894年に発表され、それまでも習作を書き続けてはいたものの、文壇からあまり評価されなかった作家一葉の転換点となった作品です。

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読書会では、一葉独特のうねるような文体、焦点移動のメリハリや、黙説法の生みだす余韻に驚きつつ、「水」「火」という要素が頻出すること(関連して「墨」)、登場人物の名前が自然に由来すること、「擦れる」描写の多さなど、テマティックな細部に注目して議論を進めていきました。また時代背景から、資本主義や家父長制との関係を考える視点も導入され、激動の時代を生き抜いた作家の生涯に思いを馳せるような場面もありました。

 

細かく見ていきましょう。

一葉の文体を多分に支えるのは言文一致では不可能な文語文です。国語教育の現代文・古典に立つ一葉は、殆ど言文一致といってよい擬古文の森鴎外とは異なり、扱われる事が少なく思います。それが後宮文学から遠い時間を経て生まれた初めての女性作家とも言える彼女を文学史から疎外させるのは、一つ象徴的でもあるようにも思われました。

一葉の小説は基本的に三人称多元で書かれ、その形式が黙説法を活かし、まさにそれが「大つごもり」に結実するのですが、こういった技術の反面、まとまった対物描写のないことが指摘されました。ある種、歌にも似た一葉文学は選択された形式や構造のなかに意味のふくらみを持たす語彙をちりばめているので、物語の内容や描写が最小限になるのは当然とも言えます。しかし、唐突に焦点が合うような細部描写のバランス感覚がとても優れていて、たとえば

 

三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに絹破れて、此肩に担ぐか見る目も愁らし、

 

このような感情をゆさぶるような場面には「針目あらはに絹破れて」といった細かな視覚的情報を入れることで抒情や、ある種のリアリズムをつくりだし、そして小説全体の語の運動に連関していると一葉の文章の巧さが凝縮している一文について話し合ったりしました。

マティスムとして見てみますと

「水」井戸 風呂 水ばき下駄 水(石之助がねだる) 等々

「火」竈 長火鉢 堅焼に似し蒲団 石油蔵に火を入れるやうな物 等々

の外に「石之助」「山村」「お峯」という名前や至る所に現れる数字「三之助」「十四尋」「十三杯」など。

こうした言葉の運動から意味を見出すのがテマティスムですが、今回挙げられたのは貧しさが「火」の系列に結びつき、「水」は豊かさに結び付けて、たとえば風呂が上は「水」、下は「火」というような造りと、石之助が炬燵に足をつっこみ、口では水を強請っているといった相似関係、伯父の家の食事が今川焼と里芋の煮ころがしで、山村家の小松菜をゆで、数の子を洗うというお峯の料理風景のかすかな差異に影響していると見ます。そのような「火」と「水」の関係、そして「車」や絹破れ、人の行き交いなどの「摩擦」から懸け硯の引き出し、つまり「墨」に繋がり石之助が

 

(引き出しの分も拝借致し候  石之助)

 

 と書くことで決着するという全体を通して掴める一つの読みが成り立ちました。

そして今度は「水」からもう一つの対立も見えてきます。御新造は娘の初産に立ち会うために、大旦那は舟釣りに出かけるところから、「火」の上としての「水」のさらに上に「舟」が現れ、たとえば臨時収入のことを冒頭でほまち(=船乗りが契約外の荷物の運送で得る収入)という表現を使っていることに繋がっていたりして、男女や夫妻という上下関係を細部によって描き出しています。さらに、石之助-お峯の関係は目的的必然によって担われるものではなく、それぞれが「旦那、御新造、妹娘」や「伯父、伯母、三之助」という家父長的系譜(オイディプス的関係)から疎外されている存在として、二人の類似性を偶然的に見出すことが出来るでしょう。そこで「墨」という上下関係の溶け合ったもののように、貴賤や男女を越えるエクリチュールとしての小説に相応しいものに思えました。

 

上述した読みは一例に過ぎませんが、参加者で意見を交換し合う中で、改めて一葉の技術水準の高さや細部への配慮を感じることができ、非常に充実した読書会となりました。また、このようなテクスト分析に作家主体を導入することで、貧困や、男女というしがらみの中で書き続けた一葉の切実さが身に染みてきます。文フリの初稿〆切が近いサークル員たちにとっては、書くことで/を生きた奇跡の作家の文章に触れることが、何よりも励みになったのではないでしょうか。

 

街場のキャラクター論 第一回 『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル~after school ACTIVITY~』で遊んでみた。

 皆さま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞ当サークルをよろしくお願い申し上げます。 
 さて、今回から「街場のキャラクター論」と題した連載企画を始めることにしました。「キャラクター論」とは言いつつも、それほど堅苦しいものにするつもりはなく、街で見かけた面白そうな素材を紹介しながら、それを通じて「キャラクター」について考えたことを書いていこうというものになる予定です。更新は不定期ですが、なるべく多く更新していこうと思っています。
 第一回である今回は、『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル~after school ACTIVITY~』(以下アケフェス)についてです。
ラブライブ!」シリーズは、9人の女子高校生スクールアイドルグループ「μ’s(ミューズ)」が、少子化の影響で生徒が減り、廃校が決まってしまった母校を救うため「スクールアイドル活動」を通じて母校をアピールしていく「みんなで叶える物語」という共通の設定で、雑誌、アニメーション、漫画、CD、アプリゲームなどを通じたマルチメディア展開を行い、多数の支持を得てきました。
「アケフェス」は、この「ラブライブ!」関連シリーズの「アーケード版」として2016年12月6日から稼働を開始し、既に全国のゲームセンターでプレイ出来るそうです。今回、私も実際にタイトーステーション柏店に足を運んで実際にプレイしてみました。

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 実際のプレイ台はこんな感じです。画面が上下に設置され、下の画面の周囲にボタンが配置されています。
 アケフェスは所謂「音ゲー」と呼ばれるジャンルに属するゲームで、楽曲に合わせて上から流れてくるリングに合わせてボタンを叩き、そのスコアを競うというものです。第一印象はアプリケーションとして以前からリリースされている「スクフェス」のアーケード版といった感じでしょうか……。
 早速百円を入れてゲームスタート……と思いきや、まずは事前に「NESICA」というTAITOが発行しているゲームデータを記録するためのカード(三百円)を購入する必要があると同行した友人からのアドバイスを受け、慌てて購入。(厳密に言えば、NECICAを購入しなくても遊べるのですが、アケフェスの全ての機能を楽しみたい方は事前の購入をお勧めします)そして万全の状態でいざプレイ!
 まずは、プロフィール等の設定を済ませ、「推しキャラ」として一人、気に入ったキャラクターを選びます。私は「園田海未」ちゃんを選びました。相変わらず可愛いです。そして、楽曲と難易度を選んでゲームは始まります。まずは、海未ちゃんが映えるであろう「ススメ→トゥモロウ」を「HARD」モードで。

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 ……画面が見づらい! 奥でキャラクターが楽曲に合わせてダンスをしているのですが、それとリングが被ってしまい、ダンスの可愛さに気を取られてリングを見失うこともしばしば。恐らくは慣れの問題だとは思うのですが、一回目は可愛いダンスに見惚れてゲームどころではないという残念な結果に。しかし、アケフェスはゲームオーバーの概念が無く、いくらミスしようとも百円で二曲は遊べるという良心的な設定のおかげでデレデレしながらでも最後まで遊べます。やったね。
 そして二曲遊び終わり、リザルトになると、プレイヤーレベルが上がったり、「デジタルカード」や「ハッピークラッカー」なるものが貰えます。よくわからないまま、台を離れて友人に「海未ちゃん可愛い」などと漏らしていると、そのまま友人に連れられてプレイ台とは別の台の前に。こちらは「センター筐体」というプレイとはまた別の目的のために設置されているようです。

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 ここでは主に「デジタルカード」の現物化やデータの管理を行います。「デジタルカード」には様々な種類があり、紹介はしきれないので興味がありましたら公式サイトを参照してください。

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 百円で一枚、現物化出来ます。初回サービスで真姫ちゃんのカードが貰えたので現物化しました。
 プレイ中は「可愛い」以外の感情が芽生えない平和なゲームです。


 このゲームをプレイして、キャラクターの「イメージ」と「所有」の問題を考えさせられました。ここではダンスという身体的な表象がCGで描かれるわけですが、それはモーションアクターの動きを処理したものであるという欺瞞があり、さらに「キャラクター」が歌っているとしている楽曲は「声優」というキャラクターとはまた別の存在が発しているものです。ある一つの統合された「キャラクター」のイメージはこうした数々の欺瞞を継ぎ接ぎしたモンタージュのようなものであるのです。今まで展開されてきた様々な媒体で描かれた「物語」は、こうしたイメージの統合のための道具であると言えるでしょう。
しかし、ここでプレイヤーはキャラクターを一つのイメージとして「信じる」ことになります。このゲームは「彼女」達が歌う曲、「彼女」達のダンスをゲームの前提に置くのですから、まずはその「彼女」というある一つの統合されたイメージの存在を「信じる」ことなしには、ゲームを始めることは出来ないのです。このゲームはそれまでの「物語」を引き継ぎ、キャラクターに歌を歌わせ、ダンスを踊らせることによって容易に「キャラクター」を一つの統合されたイメージの全体として表象することに成功していると言えるでしょう。
 そして、このゲームでは「NECICA」によって、「キャラクター」の図像を保存しておくことが出来ます。しかし、データとして保存される以上、キャラクターは情報化され、記号化されます。そうすることで、プレイヤーはキャラクターを「所有」することが出来ますが、それは統合されたイメージの中の一つの断片に過ぎません。断片は全体性を想起させこそすれ、全体になることは出来ません。そのためプレイヤーはまた「全体」を求め、ゲームをプレイすることになります。そこにはプレイヤーが信じるキャラクターの「全体」があります。しかし、それはあくまでもモンタージュであるので、ゲームの側はさらに新たな断片を提供します。この運動によって一つのコンテンツは保たれます。さらに言えば、あるコンテンツが終わる一つの原因として「断片の供給停止」を考えることが出来るはずです。
 アケフェスはこうした寿命の迫るキャラクタービジネスを延命させるための一つのモデルケースとして大いに一般化されることでしょう。

 

 次回は「つば九郎ドアラ」です。お楽しみに。

 (小林錠一郎)

2016年ベスト3

年末になると、よく新聞の書評やら何かで、「今年の収穫三点」などといって――この「収穫」という言葉について金井美恵子氏が嫌みを言っていた気がしますが、まあそれはよいとして――その年に出版された良書を識者が紹介したりしますよね。無論わたしは識者でもなんでもないわけですが、暇なので、今年刊行された書籍のベスト3をあげていきたいと思います。


1 保坂和志『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社

わたしがもっとも愛する小説家のひとりである保坂和志氏の短篇集。小説論三部作から『カフカ式練習帳』を経て、圧倒的傑作『未明の闘争』で、小説の可能性を大きく広げた作家の、最新作である本書所収の4篇、とりわけ「キース・リチャーズはすごい」(わたしはこの本のなかでこれが一番好きだ)は、かなりエッセイに近いものに見える。が、読んでいると、これは紛れもなく小説だ、と思えてくる。なぜなのか。物語ではなく記憶に依って書いているからか。うまく分析することはできないが、間違いなく、ここにある言葉ひとつひとつが小説のものだ。もちろん本として売られているわけだから一応は作品として完成しているのだけれど、保坂和志は「カフカであるということは最後まで書ききらずに途中で放置することだ」という言葉通りに書こうとしているように思える。そういう小説。

2 不可視委員会『われわれの友へ』
(夜光社)

国家が、社会が、民主主義が、インフラが、サイバネティックスが、そして資本が、われわれを捕獲し、統治する。それはわれわれの生を奪い、革命的な力能を奪う。だから蜂起せよ、と不可視委員会は言う。蜂起とは、自己組織化であり、今あるこの世界のただ中に、新しい世界を顕現させることである。そこにこそ資本に収奪されたわれわれの生が、ちがうかたちで胚胎するのだ。ラディカルで美しい、「友へ」の呼びかけである本書自体が、新しい世界のためのの蜂起である。
(本書への応答として『HAPAX vol.5』があるが、とりわけそこに所収されている堀千晶「壁を猛り狂わせる」をぜひ併読してほしい)

3 絓 秀実『タイム・スリップの断崖で』(書肆子午線)

文芸批評家、絓秀実の時評集。イラク戦争の頃から、今に至るまでの様々な事象が扱われているが、ここでの絓の態度は一貫している。それは欺瞞的なリベラルへの批判である。たとえば、反資本主義を言えない反原発に、反日米安保体制を言えない反安保運動に、どんな意義があると言うのか、と絓は問うのだ。もちろんその問いに答え、ラディカルであることは困難である。困難であるが、その困難さを見ないのであれば現状肯定に陥るだけではないか。徹底して「革命」を思考/志向し続けた著者の、優れた現状分析の書。必読!


他に2016年に出た本ですと、金井美恵子美恵子『新・目白雑録』(平凡社)、ナボコフ『絶望』(光文社古典新訳文庫)、スティーブン・ミルハウザー『魔法の夜』(白水社)、酒井隆史『暴力の哲学』(河出文庫)、松本哉『世界マヌケ反乱の手引書: ふざけた場所の作り方』(筑摩書房)が良かったです。それからまだ読んでいないんですが、ベケットの『事の次第』(白水社)が復刊されたのは嬉しかったですね。


ついでに映画と音楽のベスト3もあげておきます。



〈映画〉

1.『チリの闘い』(監督:パトリシオ・グスマン)
チリのアジェンデ政権とクーデター、それをめぐる労働者の顔のドキュメンタリー映画。

2.『ジョギング渡り鳥』(監督:鈴木卓爾
「モコモコ系メタSF映画」。映画への愛。

3.『この世界の片隅に』(監督:片渕須直
戦争をミクロ政治学的な観点から捉えた傑作。これがヒットしているんだからまだ日本も捨てたもんじゃない。



〈音楽〉
1.ザ・クロマニヨンズ『BIMBOROL』
いつものクロマニヨンズ。泣ける。

2.相対性理論『天声ジングル』
よくわかんないけどすごい。泣ける。

3.カネコアヤノ『さよーならあなた』
今年3回ライブ行った。泣ける。




まあわたしの2016年はこういう年でした。来年は文フリで冊子出します。小説書きます。頑張ります。



(Takebayashi )

感想 ポッピンQ 東映アニメーション60周年映画

東映アニメーション60周年と聞いて公開初日23日に見てきました。

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カレンダー貰えます。

 

2016年はアニメーション映画が豊作で、『君の名は。』『聲の形』そして『この世界の片隅に』などクオリティーの高い作品が上映されてアニメーション映画ファンにとっては幸せな一年だったのではないでしょうか。

その節目に公開開始した『ポッピンQ』もかなりクオリティーが高かったので拙筆ですが感想を書こうと思います。もちろんネタバレなしです。

 

 

 

この映画の見所はなんといっても「身体性」です。登場人物が踊ることが作品の中核を担い、踊ることによって物語が進んでいきます。通常、キャラクターがCGで描かれ直されるとその同一性に齟齬が生じますが、CGのクオリティが高く余りそういった点に目がいかないで純粋に踊りに集中できます。これはカメラワークのおかげでもあるのでしょう。

「踊り」は今敏の『パーフェクトブルー』や最近で言えば『ラブライブ!』『THE IDOLM@STER』などアイドルものに必須の要素ですが、アニメーションという性質上、とても難しいものだと思います。つまり、アニメーションは一枚の絵と次の一枚の絵を繋げるモンタージュ技法の頂点的な媒体ですが、反面「長回し」で撮るということがとても難しいからです。例えば『鬼物語』18話の紙芝居風一枚絵のようなスライド移動や『バケモノの子』の図書館前で不良を返り討ちにするシーンなどで使われるスライド移動のように余りアニメーション的ではない動きになってしまいます。(個別に見ればとても表現に富んではいますが) 特に「踊り」というのは一連の動作の流れ、その総体を呼ぶものですから長回しが必須になります。そこにおいてCGの疑似カメラはとても相性が良いのだろうと感じました。そのため踊りのシーンが物語の流れに自然に馴染んでいます。アニメ版『THE IDOLM@ASTER』ではCGではないですが、おそろしいことに作画のクオリティーで保たせていて、そうすると全体的な身体表現というよりは動作一つ一つにフェティシズム的な魅力が生まれてくる気がします。例えば片腕を頭の上まで挙げたり、肩幅に足を開いたり、腰を曲げるなどの個別の仕草です。

 

ポッピンQの話に戻ります。

私が一番好きなシーンは作品中盤にある合っていない踊りの場面です。上手く踊りすぎると余りにも踊らされているように見えてしまいます。これはどうしてもモーションアクターとキャラクターの差異の関係上取り払えない問題でしょう。同じく、あるキャラクターの声の問題はこの作品においてかなり示唆的でもあります。

 他にも、走ること、歌うこと、弾くこと、戦うこと、という動作をしっかり描いていて、可愛らしいキャラクターが重みを持って描かれています。その重みはとても人間的なものです。

彼女たちはみんな別々の制服を着ていて、そこから彼女たちのシンボリックな装束に身を纏い、最後は…という流れを見るととても全体的な主題をはらんでいて、記号がキャラクターに、そして人間になる物語としてとても上手くできています。

 

個人的にはもう少し暗転の多用を減らして時間処理に回してくれればと思いましたが、とても良い映画でキャラクターの強度について考えさせられるのでオススメです。

 

 

 

ここからは『君の名は。』『この世界の片隅に』『ポッピンQ』のネタバレ有りです。

 

 

 

 

君の名は。』『この世界の片隅に』『ポッピンQ』の主人公たちの地域がとても似ています。山と海(湖)に囲まれた地形です。どれも東京から遠く離れた場所なのに一気に距離が近づいてしまいました。入れ替わり、玉音放送、時の谷での集結。そして三葉と伊純は東京へ行き、すずは呉に残る。これはかなり象徴的な展開だと思います。入れ替わりと集結は偶然であり、玉音放送が必然なのもそうですが、伊純の方言が時の谷で消える事とすずの方言。糸森の神社の歴史が消えている事と歴史をなぞる物語など様々な点が対照的に見えてきます。『シン・ゴジラ』を政治的に見ようとする人が多いなら、こういった点にも言及するのだろうと思います。『ポッピンQ』続編があるならどのように展開していくのか期待して待ちます。

 

文フリのオマケ雑誌はこういった分析もあるかと思いますので是非。

(鯵)

 

山戸結希「溺れるナイフ」感想

コンドウです。「溺れるナイフ」観てきました@TOHO CINEMAS新宿。

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夏に先行上映を観ていたので、二回目です。

ご覧になった方も多いと思うので、ネタバレ全開で感想を書きます。

 

まず、時間について。冒頭、ヒロインの夏芽(小松菜奈)が、中学時代に浮雲の町に引っ越してきて、コウちゃん(菅田将暉)と出会うまでには数分の時間しかない。しかもその間が短めのカットで繋がれています。それに対して、夏芽が高校生になり、同級生の大友(重岡大毅)に惹かれていく数々の場面では、長回しの手法が使われています。これは宇野維正も指摘していました。

さて、後述する火祭りと並ぶ名シーンに、大友が「俺ら東京さ行ぐだ」を熱唱するというのがあります。東京に出ていく夏芽に、吉幾三の名曲をフルコーラスでプレゼントするという場面です。ここでも長回しが効果的に使われています。前に観たときは気づかなかったのですが、この場面で夏芽は腕時計をしているんですね。歌唱前、別れを切り出された大友は、彼女を押し倒し「大好きじゃ!」と想いの丈をぶつけます。ここで夏芽は作品中、何度も繰り返される仕草(腕で目元を隠す)をするのですが、その左腕(右だったかも)には黒い革の腕時計が……! 発見した時はテンションが上がりました。一人で。(周りはJKとカップルばかりで、野郎一人で座っているのが大変辛かったです)

 

そして、クライマックスの火祭りの場面。最高でした。菅田将暉かっこよすぎかよ。絵としては文句なしに素晴らしい。また、ここで重要なのが、レイプ魔の死です。かつて夏芽をスターダムから引きずり下ろしたレイプ魔が再登場し、彼女に襲い掛かるのですが、コウちゃんがやってきて、こいつをボコります。夏芽はコウちゃんに「殺せ! やれ!」と依頼します。しかし結局犯人はナイフで首を切って自殺し、血飛沫のような花火が打ちあがります。この死体と凶器の処理を担当するのが、コウちゃんの幼馴染であるカナ(上白石萌音)です。この完璧な役割分担! 我々は映画製作の場に立ち会っているような気分にさせられます。

そして結局何もしていないコウちゃん。ただ見ていることしかできない傍観者のコウちゃん。だからこそ彼は夏芽の「神さん=観客」(冒頭の看板)になれたのかもしれないですね。ラストシーンでバイクの後ろに乗りながら「見ててね」と願う夏芽。「見とるけぇのぉ!」と答えるコウちゃん。うーん、泣ける。月並みな表現ですが、こう思わずにはいられません。これは映画についての映画なのだ、と。

 

(コンドウ)