pabulumの日記

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早稲田の文芸サークルpabulumのブログです。

感想 ポッピンQ 東映アニメーション60周年映画

東映アニメーション60周年と聞いて公開初日23日に見てきました。

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2016年はアニメーション映画が豊作で、『君の名は。』『聲の形』そして『この世界の片隅に』などクオリティーの高い作品が上映されてアニメーション映画ファンにとっては幸せな一年だったのではないでしょうか。

その節目に公開開始した『ポッピンQ』もかなりクオリティーが高かったので拙筆ですが感想を書こうと思います。もちろんネタバレなしです。

 

 

 

この映画の見所はなんといっても「身体性」です。登場人物が踊ることが作品の中核を担い、踊ることによって物語が進んでいきます。通常、キャラクターがCGで描かれ直されるとその同一性に齟齬が生じますが、CGのクオリティが高く余りそういった点に目がいかないで純粋に踊りに集中できます。これはカメラワークのおかげでもあるのでしょう。

「踊り」は今敏の『パーフェクトブルー』や最近で言えば『ラブライブ!』『THE IDOLM@STER』などアイドルものに必須の要素ですが、アニメーションという性質上、とても難しいものだと思います。つまり、アニメーションは一枚の絵と次の一枚の絵を繋げるモンタージュ技法の頂点的な媒体ですが、反面「長回し」で撮るということがとても難しいからです。例えば『鬼物語』18話の紙芝居風一枚絵のようなスライド移動や『バケモノの子』の図書館前で不良を返り討ちにするシーンなどで使われるスライド移動のように余りアニメーション的ではない動きになってしまいます。(個別に見ればとても表現に富んではいますが) 特に「踊り」というのは一連の動作の流れ、その総体を呼ぶものですから長回しが必須になります。そこにおいてCGの疑似カメラはとても相性が良いのだろうと感じました。そのため踊りのシーンが物語の流れに自然に馴染んでいます。アニメ版『THE IDOLM@ASTER』ではCGではないですが、おそろしいことに作画のクオリティーで保たせていて、そうすると全体的な身体表現というよりは動作一つ一つにフェティシズム的な魅力が生まれてくる気がします。例えば片腕を頭の上まで挙げたり、肩幅に足を開いたり、腰を曲げるなどの個別の仕草です。

 

ポッピンQの話に戻ります。

私が一番好きなシーンは作品中盤にある合っていない踊りの場面です。上手く踊りすぎると余りにも踊らされているように見えてしまいます。これはどうしてもモーションアクターとキャラクターの差異の関係上取り払えない問題でしょう。同じく、あるキャラクターの声の問題はこの作品においてかなり示唆的でもあります。

 他にも、走ること、歌うこと、弾くこと、戦うこと、という動作をしっかり描いていて、可愛らしいキャラクターが重みを持って描かれています。その重みはとても人間的なものです。

彼女たちはみんな別々の制服を着ていて、そこから彼女たちのシンボリックな装束に身を纏い、最後は…という流れを見るととても全体的な主題をはらんでいて、記号がキャラクターに、そして人間になる物語としてとても上手くできています。

 

個人的にはもう少し暗転の多用を減らして時間処理に回してくれればと思いましたが、とても良い映画でキャラクターの強度について考えさせられるのでオススメです。

 

 

 

ここからは『君の名は。』『この世界の片隅に』『ポッピンQ』のネタバレ有りです。

 

 

 

 

君の名は。』『この世界の片隅に』『ポッピンQ』の主人公たちの地域がとても似ています。山と海(湖)に囲まれた地形です。どれも東京から遠く離れた場所なのに一気に距離が近づいてしまいました。入れ替わり、玉音放送、時の谷での集結。そして三葉と伊純は東京へ行き、すずは呉に残る。これはかなり象徴的な展開だと思います。入れ替わりと集結は偶然であり、玉音放送が必然なのもそうですが、伊純の方言が時の谷で消える事とすずの方言。糸森の神社の歴史が消えている事と歴史をなぞる物語など様々な点が対照的に見えてきます。『シン・ゴジラ』を政治的に見ようとする人が多いなら、こういった点にも言及するのだろうと思います。『ポッピンQ』続編があるならどのように展開していくのか期待して待ちます。

 

文フリのオマケ雑誌はこういった分析もあるかと思いますので是非。

(鯵)