pabulumの日記

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早稲田の文芸サークルpabulumのブログです。

【活動報告】樋口一葉「大つごもり」読書会

2月7日に、樋口一葉「大つごもり」の読書会をおこないました。

 

「大つごもり」は1894年に発表され、それまでも習作を書き続けてはいたものの、文壇からあまり評価されなかった作家一葉の転換点となった作品です。

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読書会では、一葉独特のうねるような文体、焦点移動のメリハリや、黙説法の生みだす余韻に驚きつつ、「水」「火」という要素が頻出すること(関連して「墨」)、登場人物の名前が自然に由来すること、「擦れる」描写の多さなど、テマティックな細部に注目して議論を進めていきました。また時代背景から、資本主義や家父長制との関係を考える視点も導入され、激動の時代を生き抜いた作家の生涯に思いを馳せるような場面もありました。

 

細かく見ていきましょう。

一葉の文体を多分に支えるのは言文一致では不可能な文語文です。国語教育の現代文・古典に立つ一葉は、殆ど言文一致といってよい擬古文の森鴎外とは異なり、扱われる事が少なく思います。それが後宮文学から遠い時間を経て生まれた初めての女性作家とも言える彼女を文学史から疎外させるのは、一つ象徴的でもあるようにも思われました。

一葉の小説は基本的に三人称多元で書かれ、その形式が黙説法を活かし、まさにそれが「大つごもり」に結実するのですが、こういった技術の反面、まとまった対物描写のないことが指摘されました。ある種、歌にも似た一葉文学は選択された形式や構造のなかに意味のふくらみを持たす語彙をちりばめているので、物語の内容や描写が最小限になるのは当然とも言えます。しかし、唐突に焦点が合うような細部描写のバランス感覚がとても優れていて、たとえば

 

三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに絹破れて、此肩に担ぐか見る目も愁らし、

 

このような感情をゆさぶるような場面には「針目あらはに絹破れて」といった細かな視覚的情報を入れることで抒情や、ある種のリアリズムをつくりだし、そして小説全体の語の運動に連関していると一葉の文章の巧さが凝縮している一文について話し合ったりしました。

マティスムとして見てみますと

「水」井戸 風呂 水ばき下駄 水(石之助がねだる) 等々

「火」竈 長火鉢 堅焼に似し蒲団 石油蔵に火を入れるやうな物 等々

の外に「石之助」「山村」「お峯」という名前や至る所に現れる数字「三之助」「十四尋」「十三杯」など。

こうした言葉の運動から意味を見出すのがテマティスムですが、今回挙げられたのは貧しさが「火」の系列に結びつき、「水」は豊かさに結び付けて、たとえば風呂が上は「水」、下は「火」というような造りと、石之助が炬燵に足をつっこみ、口では水を強請っているといった相似関係、伯父の家の食事が今川焼と里芋の煮ころがしで、山村家の小松菜をゆで、数の子を洗うというお峯の料理風景のかすかな差異に影響していると見ます。そのような「火」と「水」の関係、そして「車」や絹破れ、人の行き交いなどの「摩擦」から懸け硯の引き出し、つまり「墨」に繋がり石之助が

 

(引き出しの分も拝借致し候  石之助)

 

 と書くことで決着するという全体を通して掴める一つの読みが成り立ちました。

そして今度は「水」からもう一つの対立も見えてきます。御新造は娘の初産に立ち会うために、大旦那は舟釣りに出かけるところから、「火」の上としての「水」のさらに上に「舟」が現れ、たとえば臨時収入のことを冒頭でほまち(=船乗りが契約外の荷物の運送で得る収入)という表現を使っていることに繋がっていたりして、男女や夫妻という上下関係を細部によって描き出しています。さらに、石之助-お峯の関係は目的的必然によって担われるものではなく、それぞれが「旦那、御新造、妹娘」や「伯父、伯母、三之助」という家父長的系譜(オイディプス的関係)から疎外されている存在として、二人の類似性を偶然的に見出すことが出来るでしょう。そこで「墨」という上下関係の溶け合ったもののように、貴賤や男女を越えるエクリチュールとしての小説に相応しいものに思えました。

 

上述した読みは一例に過ぎませんが、参加者で意見を交換し合う中で、改めて一葉の技術水準の高さや細部への配慮を感じることができ、非常に充実した読書会となりました。また、このようなテクスト分析に作家主体を導入することで、貧困や、男女というしがらみの中で書き続けた一葉の切実さが身に染みてきます。文フリの初稿〆切が近いサークル員たちにとっては、書くことで/を生きた奇跡の作家の文章に触れることが、何よりも励みになったのではないでしょうか。